生きるということ

にゅい

2006年10月14日 22:27

英語では生活も人生も"Life"という語で表します。

最近、よくQOL(Quality of Life)という語が聞かれますよね(私だけ?私にとってはギョーカイ用語なんですけど)。これは「生活の質+人生の質」という風に解釈されています。

生きる時間の長さのみや、ただ「生かされている」だけ(極端にいえば病院のベッドや機械に縛られて死を待つ人生)の時間を過ごすことを、良い人生とは呼ばないんだよ、人にはそれぞれの「生き方」や「生きざま」があって、完全燃焼できる人生や、本人なりの日常を過ごせるのが「質の高いLife=QOLが高い」っていう解釈で良いと思います。考えてみたらあたりまえのことですね。ははは

ここ数年、老人の心理やケアについて勉強する機会が多く、より良い人生を送り、最後に笑って死ぬっていうことを考えるようになりました。4年ほど前に出会ったミッチ・アルボム著の「モリー先生との火曜日」も、こういった考えに拍車をかけました。

それもベースにあって、一度自分の人生の見直しをしようと退職をしたのですけどね。最近育ての親といっても過言では無い大切な人が、天命とはいえ逝ってしまったことでまた考えることが多くなりました。

お葬式のステップの数々。
特に、火葬場であれよあれよと大事な人の入った棺があの鋼の扉の向こう側に運び込まれてしまい、あっけにとられている間に点火。あのボタンを押した私の父も、辛かったとは思います。
お骨になるまでの間、一旦自宅に戻るため建物を出たら、妹が泣きながら煙突を指さして
「あの煙、おばあちゃんだよね。おばあちゃん、焼かれてるんだよね。おばあちゃん、かわいそう」と私に言いました。あまりにリアルな(現実なのであたりまえですが)煙に、胸がぐっとつまり、また涙が出ました。

もう、ばぁちゃんの身体はばぁちゃんに苦しみを与えていないはずだから…
そう繰り返し自分に言い聞かせました。

私が、私の身体が、あの鋼の扉の向こう側に送られる時、ボタンを押すのは誰だろう。
棺の中に横たわる自分、その蓋が閉じられて真っ暗になって、モーター音と共にこの身体の最後の仕事をするために「奥」へ運び込まれ、扉の閉まる金属音が響く…。
この想像、かなりきついですよね。

この場面だけに囚われたらいけないとは思っています。

自分の身体がその瞬間を迎えるまでには、たぶんまだ時間が残されているはず。
それまでの時間を、どのように過ごすか。

幸せだと実感し、感謝を忘れず、できることをやりきる。そんな日常を人生の限り続けていく。もちろんそこには、大切な家族や友人との心地よい時間もあります。

壮大なことではないかもしれないけれど、QOLの高い人生って私にとってはきっとそんなことです。
Life is beautiful.
Life is meaningful.


がんばります。